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東宝大争議に巻き込まれて、在籍僅か六ヶ月で東宝演劇部を去らねばならなくなった僕は途方に暮れた。
これから僕は一体どの道を歩けばよいのか……。折角、菊田一夫現代劇こそがこれからの演劇であると惚れこみ始めた時の事だっただけに無念であった。
思えば東宝はよかった。いや少なくとも僕には良くしてくれた。毎日舞台に立たせてくれた上、同年代のサラリーマンの何倍ものギャラを支給してくれた。それまでは全く無収入の演劇学生であった僕にとっては、まるで夢のような毎日であったのだ。
先輩には、歌舞伎、新劇、軽演劇、映画と、それこそ芸能各方面からの出身者がいて芸風も色々。この人達が一番若年の僕の事をあれやこれやと面倒を見てくれた。それぞれ言う事が異なって混乱した時期もあったが、言わんとする結論は一つ。育ちが異なれば入り口が異なる。切込んで行けば同じ一つの点に達するという事だ。それが演劇論というものなのかと知った。
夜は盃を交わしながら夜を徹して演劇論を戦わせる。旅興行の場合はそれが日を追う毎に熱を帯び、大音声で語り合って女優さんを悩ませた事もしばしば。これが劇団生活というものなのかと解りかけてきた。
東宝に拾われる前、僕は当時最大の新劇団新協劇団の研究生であった。僕ら七人の研究生のすぐ上には準劇団員として西村晃さん、佐野浅夫さんがいた。後にお二人とも二代目三代目の水戸黄門となって、テレビ時代劇の全盛時代を創られたが、劇団の上演する芝居は殆どがロシヤ劇。ゴーゴリ、ゴーリキ、オストロフスキー、イプセン、チェホフ……の作品。したがって研究生の稽古台本もゲーテ「ファウスト」、イプセン「幽霊」といった古典。それを大音声で朗誦するように読み上げるのである。みるみる声は出るようになるのだが、どうもセリフに心がない。意味も何を言いたいのか不明。僕の耳には大音声発生器から発せられる音の連続としか聞き取れない。こんなレッスンだけでいいのかな、僕はふとそんな疑念を抱いた。
丁度そんな折に出会ったのが菊田ドラマであったのだ。菊田ドラマには心があった。燃える情熱とたぎる血潮が観客の心を揺り動かした。後に東宝現代劇と呼ばれる多くの客を集め、東宝の看板になったが、それは僕が東宝を去ってから数年後のことである。
(つづく)
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